アンジーのケセラセラ記ログ

素敵な街や一期一会を振り返ります!

熊野那智大社にて

熊野の続きです。

那智山青岸渡寺とともに熊野信仰 の中心地として栄華を極め、今なお多くの参詣者が訪れている那智大社。463段の石段を登り、標高約500メートルに位置する社殿は6棟からなり、夫須美神(ふすみのかみ)を御主神としてそれぞれに神様をおまつりして います。夫須美神は伊弉冉尊(いざなみのみこと)ともいい万物の生成・育成を司るとされ、農林・水産・漁業の守護神、また縁結びの神様として崇められています。

素人が撮る三重塔と那智の滝。でも、やっと来ました、感動です。涙。

←この素晴らしい景観を見るために463段昇っていきます。



着きました!

詳しくはHPで。

https://kumanonachitaisha.or.jp/pavilion/


御朱印いただきました。


那智大社の滝側にある如意輪観世音を祀る青岸渡寺。

本堂は4世紀ごろ、インドの僧が開山し、豊臣秀吉が再建したもので、国の重要文化財に指定されています。推古天皇の時代に生仏上人が来山して玉椿の大木で現在の御本尊(御丈約4m)を彫り、裸形上人が感じ取られた観世音菩薩を胸仏として納め安置しました。後、推古天皇の勅願寺となり、那智霊場の信仰の中心として熊野信仰を育んできました。花山法皇が10世紀の末に一千日の瀧籠り修行をされ、西国三十三所観音巡礼の第一番札所として定めたとされます。

本堂後方には、那智の大瀧との調和が美しい朱色の三重の塔。

西国三十三所観音巡りの第一番礼所でもあります。

この塔は1581年に豪族の対立により焼失。

現在の三重塔は1972年に400年ぶりに再建されたそう。



三重塔からみた滝。

熊野那智大社拝殿の前方、那智川の谷を見おろす位置にある樟。

平重盛の手植えと伝えられ、従って伝承樹齢は800年余。

那智滝が御神体であるように、このクスノキにも神性が認められ、「樟霊社」と名付けられている。

樟の根幹部に人が通り抜けられるほどの空洞があり願い事と氏名を記入した護摩木を奉持して空洞を抜け、空洞の出口で初穂料とともに護摩木を納める「胎内くぐり」をする人が多く並んでいました。

熊野古道の那智大社終着地点。


熊野詣がざっくりですいません。ゆっくり来ないと怒られそうな場所ですが、バスツアーでの三山巡りは楽しかったです。


最後にツアーバスの中で聞いて驚いた捨身行の補陀落渡海の話を備忘で書いておきます。

補陀落渡海?初めて聞きました。

補陀落というのはサンスクリット語のポータラカのことで、インドの南海上にあるとされた観音菩薩の浄土のことです。チベット・ラサにあるポタラ宮の「ポタラ」も、このポータラカのこととされます。

日本でも古来、遥か南海上にこの補陀落浄土があるとされて、そこへ渡る、つまり渡海するということが行われいたそう。補陀落渡海の船は日本各地から出たとされますが、目的地は南海上ですから、もちろん南に向かって海が開けた場所が条件です。特に紀伊半島の南、熊野ではもともと「海の彼方に常世の国がある」と信じられていて、そこにこの観音信仰が結びついて渡海が行われるようになったとされます。


那智勝浦の補陀洛山寺では、この補陀落渡海が盛んに行われました。最初の渡海は平安時代、貞観10年(868)の慶竜上人。以来1722年までの間に25人が渡海したとされます。渡海の船にはほぼ箱のような船室があって、その四方に小さな鳥居が建てられます。観音信仰ですからこれは仏教の行なのですが、そこに鳥居を建てるのは神仏習合ということですね。この船室には30日分の食糧や水、行灯の油などが積み込まれますが、行者が乗り込むと出入り口を塞ぎ、外から釘を打ち付けて絶対に出られないようにしてしまいます。そして、二隻の船に沖へと曳かれて行って、やがて曳き綱を切られると補陀落渡海の長い航海に出るのです。この綱を切る辺りにある島は「綱切島」と呼ばれたといいます。初冬の北風に乗って、南へと流される補陀落渡海が多く行われたのは11月、北風が吹く時期だったとされます。綱を切られた補陀落船はこの北風で沖へ沖へと流されるのです。そしてその後どうなってしまうのかは誰にもわかりません。おそらく波間を漂流して、やがて沈んでしまうのでしょう。修行を重ねた徳の高い僧侶が、最後に行う捨身行。当然のように年配の方が多かったといいますが、中には戦国時代、世を憂いて18歳で渡海した例もあるそうです。


修行という名のほぼほぼ生還する可能性のない旅立ちですが、十六世紀に渡海を試みた日秀上人という人は、黒潮に逆行して西へ流されて沖縄へ漂着し、彼の地で熊野信仰を広めたとされます。